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徒然 然

アニメ批評など。

『くまみこ』最終回、キャラクターの齟齬

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 あまりにエキセントリックな内容に放送終了直後から各所で物議を醸していた『くまみこ』最終回。原作者が自身のブログで苦言を呈したうえで当該記事を削除したり,脚本を担当していたピエール杉浦さんが自身のTwitterアカウントを削除したりと,思いのほか大事になりつつあります。

 でも,そもそもなぜあのような形になってしまったのか?「脚本家のせい」で片付けてしまうのが簡単ではありますが,もう少し掘り下げて考えていきたいところです。

 

 最終回で最も批判が集中したのは,原作者もブログで綴っていたように,良夫の発言でしょう。このシーンはアニメオリジナルですから,良夫の発言もとうぜんアニメオリジナルということになります。

「なあ、もう止めねえか?なんでそこまで意地になってんだよ。あそこまで本人が嫌がってるんだぞ?村おこしなんかがそんなに大事なのかよ?」

「大事だよ。年々過疎化が進んで元気がない熊出村に光を与えるのが村おこしなんだ。このプロジェクトには熊出村全体の将来がかかっているんだよ。」

「てめぇ!だからってあいつを犠牲にしても平気だって言うのかよ!」

「熊出村の昔話、ひー子も知ってるよな。娘を生け贄として差し出していたって話さ。」

「そんなの子供だましの迷信だろうが!」

「それってさ。現代に置き換えたら、巫術を持った娘巫女のことだと思わないか。あいつには酷だけど、まちに村の代表として、みんなのために頑張ってほしいんだよ。」

「いくらなんでも解釈に無理があんだろ。だからそんなにあいつにこだわってたのか?」

「あの巫女服はおふくろが作って、ナツもパフォーマンスの練習手伝ってくれて、松さんもあんな大きい旗を作って、ひー子だって特訓手伝ってくれただろ?村のどこに行っても、みんながまちを応援して、期待してくれてるんだよ! 村のみんなの願いなんだ!この村おこしプロジェクトは!」

「……勝手にしろ。」

 まち本人の意志であるならまだしも,ナツ含め周囲の大人たちに乗せられて出場することになり,挙げ句このような良夫と響との会話を「聞いてしまった」うえでなされた「決断」は,果たして本人の意志と言えるものでしょうか?そういう意味では,最終回タイトルが「決断」というのは実に皮肉的なものです。

  そして何よりも,非常に重たいトーンでやれ昔話がどうだの,やれ「酷だけどみんなのために頑張ってほしい」だのと良夫に喋らせてしまったこと,これがこの最終回における最大のミスでした。

 この作品における良夫というキャラクターの立ち位置としては,村おこしのための良い思いつきがあれば軽い気持ちでまちを使ってしまう,「まちに対してちょっと鈍感なゆえの掻き回しキャラ」あたりで捉えるのが妥当な線でしょう。良夫にとってまちは「かわいい従妹」であり,扱いの粗さもそこに依拠されていると考えて然るべきでした。

 ところが,最終回での発言によると,良夫は「昔話で言うところの『生け贄』なのだから,それが酷だったとしても,村の代表としてみんなのために頑張ってほしい」という明確な理由を持ってまちに接しているということになってしまいます。これは響の「だからそんなにあいつにこだわってたのか?」という問いかけに対し否定していないことからも首肯できます。良夫のキャラクター性をここまで転換してしまうと,途端に,まちは村おこしのための「犠牲者」という色が濃くなってしまうわけです。

 

 そもそも,この最終回に限らず,これまでのストーリーでも端々からまちの「犠牲者感」は見受けられました。キャラクターがちょっと変則的な「スローライフストーリー」としていればよいところを,世間知らずのかわいい田舎娘をコケにして笑いを取ろうとするような,悪趣味なえがき方が通底していたように感じられてなりません。この最終回の良夫のアニメオリジナルのセリフを鑑みても,あるいはアニメ制作陣はこの作品の特長を最後まで捉えられていなかったのではないか?と訝しんでしまうのですが―。