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徒然 然

アニメ批評など。

「ラノベアニメ」の限界―販促と演出

 今期,アニメ化されていないライトノベルの残弾としては最大級といえる『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』が放送されているが,その反響は芳しくない。

 これまで数多のライトノベルがアニメ化されてきたが,その中でアニメ業界を席巻したといえるような作品はほとんど存在しない。最大瞬間風速は大きくとも,クール終了時に振り返ったときに話題に上るのは,当初はさほど期待されていなかったような原作の作品やオリジナル作品であることがほとんどである。

 

 「書籍」と「アニメ」のメディアとしての性質の違いは改めて書くまでもないだろう。「文字を映像におこす」という作業は表現として非常に難しい領域であって,オリジナルで1から映像を作り上げるのとは別の能力が必要とされる。

 どれだけ面白い小説であっても映像のつくり方が下手であれば駄作に成り下がり得るし,その逆もまた然りである。

 

 だが,ことライトノベルのアニメ化に関してはその配慮が欠落している作品が多すぎるように思えてならない。どこかで見たようなストーリーがどこかで見たような演出で淡々と進められていく。そこには監督ないしは演出家の個性を見出すことはできない。

 どこまでも無難な,そして画一的な作品が量産されていく背景には,アニメ化のビジネスとしての側面―「販促」が見え隠れする。

 

 まず,「ラノベ層」と「アニメ層」が必ずしも合致していないことは頷いていただけるだろう。たとえば,「毎クールの新アニメは見るけれどラノベは特定の追いかけている作品しか読まない」という人は数多く存在するはずだ。

 こういった層に対して,アニメ化によるラノベの宣伝効果は絶大であることは容易に想像される。事実,適当な作品についてアニメ化の前後で売上部数を比較してみれば一目瞭然である。

 

 「販促としてのアニメ化」において最も重要になるのは「絶対的な認知度」である。この「認知度」は,アニメ化決定の帯を掲げ,CMを打つことで大方は引き上げることができる。言うなれば,アニメが放送される前に完了してしまっているのである。

 もちろん,どれだけ認知度が高かろうとも作品のクオリティが低ければ原作購入という消費行動に結びつかない可能性は存在する。しかし,ここで求められている「クオリティ」は「作品を昇華させる」ものではなく「原作の価値をそのまま伝える」もの,言い換えれば「上昇志向」ではなく「安定志向」である。原作の出版社としては「イチかバチか一発当ててやろう」などという考え方は販売戦略的にナンセンスなのである。

 

 昨今のアニメでは「製作委員会方式」が主流となっている。ラノベアニメもその例外ではなく,当然,原作出版社が委員会に加わってくる。その出資割合は出版社によりけりではあるが,たとえば角川グループはその影響力が強く,角川書籍原作のアニメは「角川アニメ」として一部で悪名高い存在となっているほどである。

 出資者の意向があれば制作はそれに従うほかない。「原作に忠実に制作してほしい」と言われれば,メディアの違いを意識した大胆な構成変更や説明の省略といった演出ができるはずもなく,改変などもってのほかである。

 結果として,アニメ内で完結を迎えることはなく,いわゆる「おれたた」で「続きは原作を買ってくださいね」と言わんばかりの尻切れトンボとなってしまうのである。

 

 それでも当初はラノベ特有の爽快感と展開の明瞭さという目新しさである程度の人気を得ることができた。しかし,ここ数年はそのあまりの数の多さに食傷する人も多く,「最後まで絶賛していたのは原作ファンだけだった」という閉鎖的な環として完結してしまうことも珍しくない。

 

 これらはラノベに限った話ではない。ラノベと比較すると宣伝効果で劣るが,マンガについても同様のことがいえる。今期でいえば『食戟のソーマ』がその典型だろう。

 マンガにおいては『進撃の巨人』という例外が存在するが,これはアニメ視聴層というよりも一般層に膾炙した結果であるため,少なくともラノベに落とし込んで考えることは難しいだろう。

 

 大規模な構成ができない以上,監督に求められるのは小技的な演出である。ストーリー以外の部分でそのラノベがもつ優位性を要素として見出し,それを本筋に傷をつけないようにしつつ引き立たせる―監督の技量が試されるといえば聞こえはいいが,匙を投げてしまうのも無理はないのではないだろうか。